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切り抜き詳細

発行日時
2013-6-23 8:56
見出し
自然への謙虚さ学ぶ 三陸視察応援ツアー・下
リンクURL
http://tanba.jp/modules/features/index.php?page=article&storyid=864 自然への謙虚さ学ぶ 三陸視察応援ツアー・下への外部リンク
記事詳細
「再度自然に畏敬の念を」 写真・海辺から山すそまで約3キロに渡って壊滅したまち=岩手県陸前高田市で  何もない。 この言葉が的確に当てはまる光景だった。 2年3カ月前までは違った。 海岸線には7万本の松が立ち並び、 鉄道の駅を中心に建物がひしめき合っていた。 それはたった30分で消えた。 まちを襲った 「水の壁」 は、 圧倒的な力ですべてをのみ込んだ。  13日、 ツアー最終日。 一行を乗せたバスは岩手県陸前高田市に入った。 霧がかかったまちは、 海岸から遠くの山すそまでが草原のようになっている。 ところどころに小山のようなものが見えた。   「小山の中で草が生えている黒いものはすべて津波が運んできた土。 海の底のヘドロですね」。 同市観光物産協会の實吉(みよし)義正さんが言う。  駅があったところ。 市役所があったところ。 病院があったところ。 そして、 自分の妹がいたところ。 實吉さんの話の大半は過去形だった。  史上、 何度も津波に襲われている東北には 「津波てんでんこ」 という言葉がある。 津波が来たら散り散りばらばらに逃げよ、 という教訓だ。  實吉さんの親友は、 最後の最後でそれができなかった。 地震後、 すぐに家族とともに高台へ逃げた。 高台の下におばあさんを引きずって逃げている女性を見つけ、 たまらなくなって戻った。 そして、 3人とも家族の前で波に持っていかれた。   「てんでんこは読み取りようによっては非常に冷たいニュアンスを含んでいる。 けれど、 それができないのもまた人間なんですよ」  市内の学校でも多くの児童・生徒が亡くなった。 そのほとんどは学校ではなくまちにいた子どもたち。 親が迎えに来た子どもたちは、 車ごと波に連れ去られた。  被災後、 学校現場は津波警報が解除されるまで保護者に引き渡さないことを決めた。 余震で警報が出たときは午後10時に解除されるまで頑として子どもたちを学校に留めた。 親が返せといっても返さなかった。 子どもは学校が絶対に守る。 これは今後生かされていく教訓の一つになるだろう。  市内最大の避難所となった市民体育館の跡地。 震災時、 ここには付近の住民約350人が避難していた。 何十年と避難所と言われてきた施設だった。 しかし、 ここで発見された遺体は約80体。 他の人も助かったわけではない。 津波はコンクリートの壁を抜いていた。  男性が叫んだ最期の言葉は、「あんたら生きろ!」。 その声を励みに生きた人も震災後、 夜中に彼の必死の形相が思い出される。  幼い娘を亡くした母は、 僧侶に経を上げてもらい、 「よかったなぁ。 寒かったなぁ」 と泣き崩れた。 死を認めた瞬間だった。  生き残った人は今も自分の記憶と闘っている。家族を奪った憎い海。 でも、 このまちの人は言う。「それでもオラたちは海でしか生きられない」  松下すみ子さん (丹波市柏原町南多田) は、 堪えきれず、 何度も涙をぬぐった。  全国的に有名になった 「一本松」。 被災後に枯死がわかり、 一度切り倒した後、 防腐処理を施してもとの場所に帰った。 「復元費用は1億5000万円。 そのお金で住宅を建ててくれ」 「枯死したまま残し、 本当に倒れた時に 『あんたのおかげで我々は生きる希望が持てた。 あとは俺たちが意志を継いでがんばるよ』 と思いたい」。 地元からはさまざまな意見もあったが實吉さんは、 「いずれにしても、 このまちを有名にしてくれたのは事実です」 と愛おしそうに松を眺めた。  松の効果もあり、 昨年、 同協会が受け入れた観光バスは、 1300件、 2万5000人を数えた。  被害を見て、 もう一度、 自然に対して畏敬の念を持ってほしい。 そして、 復興へ進む姿が、 支援してもらった全国の人への恩返しになるはず。 それが實吉さんの原動力だ。  自然の力とたくさんの悲しみ、 そこから立ち上がる人の強さを感じた3日間だった。  (森田靖久)