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切り抜き詳細

発行日時
2013-6-20 11:37
見出し
自然への謙虚さ学ぶ 三陸視察応援ツアー・中
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記事詳細
「50年若返った海の幸」 写真・陸に揚がったままの「第18共徳丸」=宮城県気仙沼市  寒流の上を抜けた風 「やませ」 と霧雨が肌を冷やす。 風がやってくる方向を見る。 国道右手の海岸線には砂利と土。 生徒がいなくなった高校の隣りには、 がれきを処理する災害廃棄物処理施設が誰かの思い出を燃やした煙を上げていた。  12日、 宮城県気仙沼市。「とにかく今の現状を見てもらって、 後世の方たちに地震と津波の恐ろしさを伝えてほしい」。 丹波新聞社と交流のある地方新聞 「三陸新報社」 の渡邉眞紀・専務が一行を前に言った。 震災当時、 このまちにいた約7万4000人のうち、 1000人以上の命が失われた。  渡邉専務の案内で市内を巡る。 階上地区・岩井崎の海岸国立公園では、 震災年の干支である辰のように変形した 「竜の松」。 波を受けても 「残った、 残った」 の第9代横綱・秀ノ山雷五郎像。 市民に希望を与えた地域のシンボルたちだ。  一方、 今も津波の恐怖を物語っているのが、 330トンの巻き網船 「第18共徳丸」 だ。 圧倒的な威容を誇る船が鎮座しているのは海から750メートルも陸に上がったところ。 「風化を防ぐモニュメント」 「あの日を思い出させる見たくないもの」。 住民間でも意見が割れたが解体が決まっている。  国文学者で歌人、 落合直文の生家 「煙雲館」 へ。 高台にある市指定文化財は被害を受けなかったが、 眼下に広がるまちは跡形もなくなった。 同家の鮎貝文子さんが被災時の状況を語る。 話を聞き終えた飯谷宏代さん (丹波市柏原町上小倉) はこう歌を詠んだ。 「流されし 家々の跡一面に 白つめ草の 咲き盛りたり」  宮城県の北端、 太平洋に突き出た唐桑半島。 養殖業も営んでいる食堂 「つなかん」 で昼食を取る。 代表の菅野一代さんは 「食事の前にぜひ」 と、 一行を船に乗せ、 養殖カキのいかだへと案内してくれた。 そこで見たものは驚くべきものだった。  大きくなるのに普通3年はかかると言われるカキ。 引き揚げられた十分に大きく、 プリプリの身を光らせた海の幸は1年で成長したものだった。   「養殖の数を減らしたら逆にこんなに立派なものができてくれた。 人間、 欲深くなるとだめだということですね」。 津波は海に堆積したヘドロなども取り去り、 震災後、 「海は50年若返った」 とも言われる。 きれいになった海水にはプランクトンも増えたとみられ、 カキの成長を後押ししていた。  快活に話す菅野さん自身もあの日、 九死に一生を得た一人。 「神様から 『もう少しがんばりなさい』 と言われたような気がしてがんばっているんです」。 養殖の手伝いに来てくれていた仲良しのお母さん一家は、 菅野さんの目の前で津波にのまれ、 孫2人を残して帰らぬ人となった。 菅野さんの声が詰まる。 「お母さん、 見つかった時に首に風呂敷を巻いていたんです。 持って逃げたかったんでしょうね。 置いてくれば助かったかもしれないのに」。 中には孫の賞状と息子のスーツが入っていた。   「あの津波に襲われた後、 妻がいる方に向かって 『生きてるか』 と叫んだ。 妻は 『生きてます』 と返してくれた。 それが被災後、 初めて交わした言葉でした」。 渡邉専務の同級生が暮らす仮設住宅では、 避難後すぐに自治会を立ち上げ、 結束を固めた佐藤則文さんが話をしてくれた。  仮設では今、 孤独死や引きこもりなどの問題が取りざたされている。  106世帯が暮らすこの仮設も、 もともと知らない人ばかり。 2年3カ月間、 コミュニティーを創出するための行事を開催し続けた。 「カラオケ大会は好評です。 90歳過ぎたばあちゃんが、 いつも最高得点でね」