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切り抜き詳細

発行日時
2013-6-16 9:10
見出し
自然への謙虚さ学ぶ 三陸視察応援ツアー・上
リンクURL
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記事詳細
「地震と津波が教えた絆」 写真・被災した南三陸町の市街地。2年3カ月が過ぎても砂利だらけのまま=宮城県南三陸町で  そこに家があったはずの場所には若々しい緑色をした草が生い茂り、 たくさんのシロツメクサの花が風に揺れていた。 丹波新聞社が6月11―13日に主催した 「東日本大震災の被災地三陸の視察・応援ツアー」。 丹波、 篠山両市などから22人が参加、 被災した各地をめぐりながら改めて学んだことは、 「自然の前に人間は謙虚でなければならない」 ということだった。 3回にわたって同行記を綴る。(森田靖久)  市街地の6割が壊滅し、 人口約1万7000人のまちで死者・行方不明者合わせて約800人を数えた南三陸町。 「大きな津波が予想されます。 高台へ逃げてください」。 あの日、 迫り来る大津波を前に放送のマイクを握り、 声を出し続けた24歳の女性がいた。 彼女に逃げろといった職員もいた。 今はもう声も聞けない。 姿を見ることもできない。 彼女は半年後に結婚を控えていた。  砂利だらけのまちの中に赤い鉄骨の建物だけが異様な姿を残していた。 彼女たちがいた同町防災対策庁舎。 11日、 バスを降りた参加者らが建物を見上げた後、 静かに手を合わせる。 三木義夫さん (丹波市春日町黒井) は持参した線香を手向けた。   「昭和の津波の時にも41人の死者が出た。 なのに災害時に本部となる建物が平地にあるんです。 なぜだと思いますか」。 同町で語り部をしている後藤一磨さんが参加者に投げかける。 「12年前、 津波が来るような場所に建てることに反対が起きた。 でも、 バブル後の財政悪化でこの場所しか建設できなかったんです」。 声に悔しさがにじんでいた。  震災時、 気象庁が発表した津波の予測は約6メートルだった。 海辺には過去の津波の経験から5メートル50センチの防潮堤がある。 多くの人が 「津波が来ても大したことない」 と思ってしまった。 3分以上も続いた震度6弱の揺れの後、 襲来した津波は15メートルを超えていた。 朝まで何回も押し寄せた波は、 バキバキと音を立てて建物と人をのみ込んでいった。  後藤さんは言う。 「高台に縄文時代の遺跡があるが、 そこは被災しなかった。 技術革新後、 私たちは自然も操れると思っていたのではないか。 あの波を見ながら、 自然と人間の関係がどうあるべきかを学びなさいと言われたような気がする」  そしてこう締めくくった。 「けれどたくさんの人が助けに来てくれて、 私たちが生きていくには人間同士が絆を結んでいくことが大切と知った。 これは地震と津波が教えてくれたことです」  この日、 一行が宿泊したのが 「南三陸ホテル観洋」。 2年3カ月前、 女将の阿部憲子さんは、 従業員を前にして言った。 「みんな心を強く持って。 譲り合いの精神でがんばりましょう」  ホテルには家を失った住民が続々と避難し、 翌日以降は600人を数えた。 水は約4カ月来なかった。 雨が降ればバケツで受け、 川へ水をくみに行き、 洗濯もした。 「衣食住を提供する旅館業の私たちは災害の時に役に立つことがあると気付いた。 無念な思いで亡くなった人たちのためにも簡単に風化させてはならない。 それが私たちの使命だと思っています」  同町では約70%の事業所が廃業せざるを得なくなった。 復興商店街ができているものの、 そこで買い物をする地域住民は19%に満たない。 人口は減り続ける。   「もう地元だけでは経済が回らない。 今回のように世代にかかわらず外から被災地に来てほしい」 と一行に呼びかけた女将は、 「私たちはお客様の笑顔を見ることが楽しみですから」 と笑った。