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切り抜き詳細
発行日時
2017-2-12 18:00
見出し
壱岐の島
リンクURL
http://tanba.jp/modules/column/index.php?page=article&storyid=4897
記事詳細
先回旅行の最後に風邪でダウンした話を書いた。今回はその前の話を。一日目は午後便だったので、夕方壱岐の島着。翌日、レンタカーでまず「一支国博物館」へ。島にこんな立派な建物がと、びっくりするほどの博物館。「一支」は古代に使われた一番大きな島という意味。魏志倭人伝の壱岐の国についての文字から始まる映像を見て、縄文から弥生、古墳時代、さらに元寇の襲来した時代の遺物等々。展望台から、再現された国指定遺跡「原の辻」を眺めた。壱岐・対馬と一括りで呼ばれるが、壱岐は平坦な土地が多く、古来農耕が盛んで海産物も獲れる。対馬は高い山が海に迫り、なかなか暮しも厳しかったとか。 島を廻ると、町名に「浦」と「触」が最後についている。たまたま博物館で買った司馬遼太郎の「街道を行く⑬壱岐・対馬」を開いたら、このことに言及してあり読みふけった。当時支配していた平戸藩の政策で、漁村を「浦」、農村を「触」として行政区分した名残であるという。「触」の語源は、上からの御触れを伝えられる範囲の戸数で、全国でもここだけだとか。 さらに芭蕉について奥の細道に同行した河合曾良(一六四一~一七一〇)の墓を訪ねた。彼は芭蕉が亡くなってすぐ、幕府から「巡見使」の随員となり壱岐へ。身体が弱く高齢だったのでこの島で病死する。海を背にした小さな墓に真新しい供花があった。曾良についても、司馬さんの本に書かれていたので感じるところが多かった。そういえば今日は司馬さんの命日「菜の花忌」だ。