昨年に立ち上げてから毎月1回行っているBOWS-CAFEが、
5月の丹波新聞に取り上げてもらえるそうです。
続けていれば、ホントにいろいろと感じるものがありますが
最近ほんとに良い空間になって参りました。
「死ぬとか生きるとかが当たり前に語り合える空間」を
僕は創りたいと思っていて、それを発起人で共有してから
すぐに立ち上げたのが、このBOWS-CAFEです。
まさにそのコンセプトにぴったりの空間になってきたのです。
人はどうしたって「死ぬ」ことから逃げることが出来ません。
そして、みんな死に近づくと、妙にジタバタする人が多いようです。
もっと予め考えておけば、そんなにバタバタしなくて良いのになと
思うのですが、「死ぬ準備」と考えることは、どうも重た過ぎると
思われているようで、普段そんな話をする機会は少ないものです。
「死ぬ」ことを考えることは、一生懸命に生きるきっかけでさえ
あると思っているので、正直、僕も常に死を意識して生きています。
あと、どれくらい生きていられるのかなと思って生きています。
人は思いがけないことで、急に死んでしまったりするものですし
余命などと言われると、途端にあといくらかだけ残っている命を
大事にしなきゃいけないとかなりがちですが、毎日大事でしょと。
そう思って生きているので、毎日、今日を懸命に生きています。
忙しい日々なのですが、BOWS-CAFEに漂う空気感は
「死ぬとか生きるとかが当たり前に語り合える」ものなので
心の置き所を整えるのに、ホントに素晴らしい場になっています。
あと、人が生きるのに困るのが「執着」。
とにかく昔のことやら、昨日のことやら、人は傷ついて、
そんな自分や他人を許せないままに、素直になれずに生きています。
「あのとき、ぼくは死にたいくらいに辛かった」
「私は、要らない存在なんじゃないかと思えた」
「とりかえしがつかない言葉を口に出してしまった」
「もはや謝ることすら出来ない」
いろんな体験を通じて生まれてきた「コンプレックス」は
人をいつまでも苦しめ続け、可能性を制限していることもあるような
気がしています。悔しさをバネに大きく成長するケースもありますが。
マズローの欲求段階説というものがありますね。
人は「死なないこと」や「安全に暮らすこと」が満たされると、次には
「組織に属すること」を求め、「組織内で特別な個であること」を求める
ようになってきますが、これを承認欲求という言葉にしていますね。
目立ちたいとか、知識量を誇りたいとか、面白いと思わせたいとか、
そういう気持ちを通して「私、認められた!」と思いたい気持ちです。
ただ、実は承認欲求って「○○だからすごい」というのはしんどい
スパイラルに入っていくんじゃないのかなと思っています。
「○○したら」と限定して承認されるとすれば、その条件が
失われたことを恐れて不安になるんじゃないのかなあと思うからです。
「営業成績トップだからすごい」
⇒営業成績が落ちたらすごくない
「カワイイから好き」
⇒カワイイ条件が年齢に左右されると時間経過により好きでなくなる
「私のために一生懸命に頑張ってくれるから好き」
⇒なにかの拍子で頑張らなくなったら好きじゃなくなる
勝手な考え方ではありますが、本当に承認されることは無条件の承認であり
何があるというわけではないけど、君がいてくれて嬉しいよ、という感じ。
生きていることを、無条件に肯定してもらえることが、何よりの承認で
あると僕は考えているので、条件付きではしんどいよな〜と思うのです。
とりわけ、コンプレックスとして抱えている「自分の嫌なところ」や
「自分自身が許せない自分の一部分」を示したとき、それをきちんと受け
止めた上で、それでも変わらぬお付き合いを頂けることが出来ることが
分かったとき、人は本当に安心して生きていけるのではないかと思うのです。
それがとあるお寺で、語り合えているという事実。
僕はこういう対話を、今を生きている人の中で必要としている人は、実は
結構いるんじゃないかと思っています。
今こそ、お寺というのはすごく大事な役割を担えると思うのです。
僕はお坊さんではないけど、仏教が必要な時代がやってきたと思います。
そんな時にBOWS-CAFEが行われていることは、大きな価値があります。
これから大阪で出張してやってみようか、という話も進み始めました。
楽しい取り組みが、また少しずつ広がっていうことしています。