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2013年7月13日09:35
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園部城 南丹
南丹市園部町には今年5・6・7月と続けて城巡りには訪れているが、未だ肝心の園部城をブログには載せていなかった。今更…とは思ったが下記の様な幾つかの関連からピックアップが必要かも?。 園部城!!?と見紛う三層櫓の南丹市国際交流会館 小山城(五合山城)の荘林氏が創建した徳雲寺(案内板の由緒には荘林氏についての記述が無い)が後期:園部城主【天守を持たない陣屋だが、全国唯一:明治維新後もなお櫓門・巽櫓や三層の櫓が築かれ日本城郭史上・最後の築城としても知られる園部城】園部藩主:小出氏の菩提...
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2013年7月12日07:36
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太鼓山城 南丹市園部町
JR山陰本線船岡駅のホーム北側に半独立小丘陵が有り山上尾根に諏訪山城が在り、今年5月に訪ねたところですが、JR船岡駅を挟んで南側にも、蟠根寺城の北尾根続き先端部には太鼓山城が在った。 北郭の西側:土橋(手前)空堀高屋城(蟠根寺城)からの西尾根末端部には千妻城が在り、此方は尾根筋山麓の朝倉神社”千妻の大杉”に降り立つ。太鼓山城は蜷川城(蟠根寺城・高屋城からの北尾根続きの先端部に位置し、山麓部の”諏訪ノ森”の小丘を越えるとJR山陰本線船岡駅のホーム西端付近に出る。此のホームを挟...
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2013年7月10日21:21
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千妻城 園部
南丹市園部町千妻岡崎朝倉神社の神木は「千妻の大杉」とも呼ばれ、府下最大級の杉の巨木はよく知られていますが、其の朝倉神社背後:直ぐ上方に小曲輪群を並べて尾根続きに展開する中世山城が在りました。 主郭:帯曲輪と櫓台?土壇丘陵尾根最高所には帯曲輪の中央部を幅広い土壇(共に高低差も切岸も曖昧!!)の櫓台状マウンドが占める千妻城主郭部北曲輪・東への尾根続きに土橋付き空堀(此れも崩れ埋れかけて浅い溝状・空堀外側も明確で無いので、土橋は空堀端の低い上り土塁状に見える!!)が主郭部南曲輪部を分け...
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2013年7月9日21:33
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朝倉神社(千妻の大杉)
南丹市園部町千妻岡崎の大杉は朝倉神社の神木「千妻の大杉」とも呼ばれ、親しまれ保護されてきました。樹高30m・幹周9m推定樹齢は500年程か?、府下最大級の神木は京都府指定(昭和59年〈1984>4月14日)天然記念物で、京都の自然200選の一として平成3年(1991)6月14日付で選定されています。高さ3m程のところから二本に分かれた、ほぼ同等の大杉には篠山市に甚七森と呼ばれた安田の大杉があるが、甚七森に比べ「千妻のオオスギは度重なる落雷等の災禍を受けてか・樹勢が少し弱まっている様に...
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2013年7月8日16:26
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小山城(五合山城) 南丹
園部城の西約1km程の地点に大村城が、南方約1km付近には小山城(五合山城)が在り、園部城砦群の様な存在に見えるが、城史については不詳で関連も不明。どちらの城も初代城主は、足利尊氏に付いて軍功があったと云う南北朝期の築城。 小山城(五合山城)主郭北面切岸と帯曲輪(手前上り土塁虎口?)小山城は五合山の山上部に土塁囲みの主郭を置く単郭の小規模な城郭だが、築城主は当地土豪として勢力をもっていた荘林氏で、山麓に小山館(荘林館)〈未訪>を築き、居館南側の半独立低丘陵上に”詰め城”五合...
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2013年7月6日23:02
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大村城 南丹
南丹市の園部城(厳密?には陣屋だが!!)は京都に近く山陰や摂津・阪神間への要衝の地に在って、近世:小出吉親が出石城より国替えで入封されて以後・明治新政府により更に堅固な城として「大政奉還」の翌年、諸藩の廃城に逆行して、再整備:慶応4年(明治元年 1868)から明治2年(1869)にかけて櫓門、巽櫓や小麦山山頂を詰の丸として篭城戦に備え、天守に相応する小向三層櫓を築く大改修が成され、明治以降に例を見ない国内最後の築城歴史を持つ城として知られます。 大門交差点付近からの大村城しかし中...
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2013年7月2日23:38
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三方五湖
小浜市で”蘇洞門巡り”クルージングを楽しんだ。松ヶ崎から外海への行き帰り・西方の大島半島の北先端部に白いドーム型の大飯発電所を見るが、若狭湾・敦賀湾を分ける美方郡側にも美浜発電所がある。二つの原子力発電所に挟まれた中央部分から突き出す半島に根付き部:福井県三方上中郡若狭町・三方郡美浜町に跨り、JR小浜線三方・気山・美浜間に三方五湖が有る。
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2013年7月1日23:23
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蘇洞門巡り 若狭小浜
若狭フィッシャーマンズ・ワーフは小浜城()2010年10月頃より、小浜市内の歴史散歩に数回訪れた際、一度は食事を兼ねて立ち寄った。今回は地区内グループの日帰りバス旅行で、此れより若狭フィッシャーマンズ・ワーフ前から蘇洞門(そとも)めぐりの遊覧船が出航する時間待の間に以前にも寄ったが”世阿弥が佐渡に流された際の船出の地”を再訪。 台場浜公園の土塁は台場(砲台)遺構ではなさそう?道を隔てた水産食品センターに並び台場浜公園があり、猿楽師:観阿弥の子・世阿弥が足利義教の故なき怒りを買っ...
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2013年6月28日20:03
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十三人塚 丹波市青垣町
全国的に分布する十三xx塚は本来:初七日から三十三回忌・其々に審理を行う不動・釈迦・文殊…虚空蔵に至り、裁判官の役目を務める十三仏に由来するとされるが、塚に残される伝承は様々で数も13に限定されてはいないようです。供養塚であったり境界指標・修法壇として築かれた列塚で、丘陵・村境・峠に多い。 (Wikipedia・三省堂を参照) 中央のピダミダルな山容は吼子尾山(小室城)
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2013年6月26日23:12
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朝寝の森 丹波市
丹波市にも・随分と”むかしばなし”伝説の伝承地がありますね。丹波市山南町に「朝寝の森」の字名がのこる場所がある。R175号線と県道86号に挟まれて山南農協があり、西の県道を挟んで今は更地となっているがスーパー○○が有った。現在は東約100m・R175号側に新店舗を移しているが、此の更地の西端に溝川が流れている。此の溝川の更地側:昔は田圃だった一画が朝寝の森。北方200m程の極小丘陵には丹波最大級の丸山古墳があった。またこの一帯:地籍調査では井原・奥・野坂・岩屋の住所が混在していますが岩屋は...
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2013年6月24日09:47
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城山城 西脇市
播磨で城山城といえば・足利将軍:義教を謀殺した嘉吉の乱(1441)に播磨・美作・備前の三国守護:赤松満佑が 自刃した”たつの市”の城山(きのやま)城が有名ですが、東播磨:西脇市の城山城を知る山城フアンは殆んど皆無かも?。周囲わずか80平方メートル程・比高20m程の極小規模の釣鐘状の独立した小山は、山を見れば城山か判ると豪語する山城探索家も此処を素通りして近くの城郭に向かっているようです。頂部に小さな2-3の削平段が有るだけ?の城山(じょやま)城は一部を除いて露岩と切り立つ断崖・露岩なら何と...
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2013年6月22日21:30
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蟲生城新館 西脇
以前:2010/2月に蟲生城館と蟲生城新館、及び蟲生城を、今年:3月には再訪した蟲生城館と、蟲生城をブログで紹介しています。前回同様:今回も月に一度は立寄る”東はりまフォルクス・ガーデン黒田庄のNa-Syaは以前ブログ食事&喫茶コンテンツのなかで紹介した店のひとつ。 土塁虎口内側から登城道:白く見える土橋付き堀切(水壕か?)殊に郷土:丹波地域に特化し興味をもってもらい、丹波のポータルを目指し発展・活性化させていこうとする思いや趣旨は私のブログやホームページで充分感じられている筈...
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2013年6月21日07:56
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彫刻師:堀(新井)喜太吉
丹波市柏原に宮大工・彫刻師として版木に丹波:柏原町住人中井権次xxの刻銘を残す中井一党の作品は兵庫丹波はもとより摂津・三丹(京都丹波・丹後・但馬)・播磨等:近畿一円の寺社に残され、よく知られているところです。中井家一党の他にも同時期・大工集団(但馬・播磨方面では特に久須氏一党等!?)による共同作成もあるが、京都大工頭の地位にある名工・名門の制約には、対応しきれなかったり経済的にも少しは安くなる?播磨の大工衆も活躍したようです。篠山・摂津・播磨東部方面の寺社建築彫刻には彫師:新井弥三郎正...
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2013年6月20日15:12
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正後寺城 福知山
坂室城とは正後寺集落の谷間を隔てた南方の低丘陵北東末端に正後寺城が在りました。 正後寺城:居館主郭東面の曲輪・空堀堀越城の小倉左近太夫の家老市田彦五郎が正後寺城の城主であったと云い、天正7年(1579)”丹波攻略”に落城した塩見氏の横山城を明智光秀が改修した福知山城の築城に際して協力したという。其の後の消息が不明?なのは岩間城の吉良氏等と同様・福知山築城の秘密保持の為殺害されたものか?と勘ぐってしまう!!。反対に近在に隠れ棲み光秀の死後、秀吉方に付いて大坂の陣にも参戦した井本...
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2013年6月19日00:05
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坂室城 福知山
堀越城の在る小倉山(大蔵山・城山)の北山麓の山際:坂室と正後寺集落に坂室城と正後寺城の城館遺構が谷を挟んで存在する。小倉氏の家臣には正後寺城に市田氏がおり、「丹波志」に堀越城主小倉左京太夫の家老:清畠氏(溝端?)甚九郎が堀越城落城の際・三俣の山に隠れ棲んだとある。井本氏の名もみえる様で、共に天正7年(1579)塩見氏の横山城(明智光秀により落城後・光秀が福知山城として再建した)落城。”丹波攻め”に運命を共にしたと思われる諸城ですが、家老:市田・清畠・井本氏等と堀越城との関連は一切不明で...
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2013年6月17日21:34
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堀越城 福知山
堀越城の所在・位置説明する上で有効と思えるのが民話"金の椎の実"で紹介した”生野の里”。主郭を置く山頂部Ca165mの山名が小倉山(大蔵山)、東尾根上の出曲輪と思える三段曲輪部には上六人部簡易水道配水池の施設が建つ。配水池から尾根上方約60m程?の緩斜面途中には点標名:生野(4等三角点123.5m)の石標が埋まる。此処は細野峠を越え京と丹後・山陰を結ぶ古道:京街道筋にあって、和泉式部の娘:小式部内侍によって「大江山 生野の道の遠ければ まだ文も見ず天の橋立」と、小倉百人一首に詠まれた山...
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2013年6月16日09:26
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金の椎の実 福知山
民話に「鶴の恩返し」というのが有りますね。そして花札でもないでしょうが、木に止まり、巣造りをする・・・吉兆として喜ばれる”鶴”が 森にいて木にとまる?・・・鶴とコウノトリを 「とり違えた!!?」・・・おかしな話もおおいですね。
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2013年6月14日19:21
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平山東城 綾部
平山城館とは集落内の辻に立つ旧八幡宮の燈篭から南の舞鶴若狭自動車道の隧道”綾部17”を抜ける道路公団工事用と地区道の兼用道路?を分けて、西側の平山城館を先のブログで紹介しました。次に東側の民家背後、燈籠の立つ辻の東側地区道(幅狭い車道)からも2本ばかり、山腹の墓地への参道を進めば平山東城。 東面の高い切岸沿いに低土塁が築かれる南北朝期初期の建武年間頃の高城城城主大槻備中守の下館が平山東城だったか?。地区内の八幡宮燈篭側から民家裏手へ斜上・または少し車道を進めば直接墓地へ向かう参...
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2013年6月13日19:38
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平山城館 綾部市
木坂城を下り茗荷谷城に寄った後・府道486号を南下して府道485号に出て綾部JCT(舞鶴若狭道 )高架との中程、約150m程の地点(府道の西側に駐車スペースがある)から東へ、手動調整水門が側にある大谷川に架かる仲溝橋を渡り字名:西岡・東岡・奥ノ谷への幅狭い車道を進む。
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2013年6月10日09:21
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茗荷谷城 綾部
小坂城の東麓を京都縦貫自動車道(綾部宮津道路)が走る。小坂城からは登路を引き返さず、自動車走行の車騒音を聞きながら北東側へ直接降る短い枝尾根筋から谷を降り、自動車道工事専用道を兼ねた作業林道?の終点に降り立った。 大土塁と堀切自動車道隧道を潜り八田川源流?の谷川を渡ると府道486号線に出る。北上する山間の道は峠を越え志賀郷に出て犀川沿いに志賀郷町に出る。高屋城(物部城)を本拠城の上原氏一族の浅根山城・北野城や天王山城が点在し、志賀郷(志賀の里)の七不思議伝承が残る地。 ...