2週間ほど前に朝の散歩代わりに歩いた金山のレポートです。
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金山は、篠山市と丹波市界にある標高540mの山である。
明智光秀が丹波を攻める際、黒井城と八上城を眺めることのできる金山に城を築いたことで有名な城跡である。
天正六年(1578)二月、三木城主別所長治が織田信長に背きます。篠山盆地一帯を支配していた戦国大名波多野秀治は、この謀反を支援して他の丹波国人衆とともに一斉蜂起します。信長は明智光秀に征討を命じ、同年三月にその軍勢が丹波へ侵攻することになります。
秀治はその居城八上城にあって、氷上郡にある黒井城の赤井氏と連携しながら、光秀に対し徹底抗戦を続けます。光秀は、この両者の連携を最も恐れていました。光秀には、天正三年(1575)に黒井城を攻めた際、秀治に背後から襲撃され京へ命からがら逃げ帰った苦い思い出があったからです。
光秀は、秀治と赤井氏との連携を分断するためにその後ここに金山城を築きます。すなわち、多紀郡(現篠山市)と氷上郡の郡境にあって、両郡を結ぶ交通上の要衝であったこの地は、両者の連携を遮断するに格好の地であったからです。これが功を奏したのか、八上城は天正七年(1579)六月ついに落城し、戦国時代に勇名をはせた波多野氏は歴史の舞台から消え去ることになります。(金山城址案内板)
久しぶりに大乗寺から登ることにする。
大乗寺は、白鳳時代に法道仙人によって開かれた天台宗のお寺であったが、明智光秀の丹波攻めで焼失。
その後、慶長年間に真言宗のお寺として再建されたという。
追手神社の奥の谷を進むと、立派な山門がある。
その先に登山口があり、鹿柵を開けて山へ入る。
早春には麓に咲く可憐な花を見て金山に登る人が多いが、秋は登山者も少ないようだ。
歩きやすい道がつづらおれに続き、そのうち尾根に出る。
雑木の気持ちのいい道だ。
登りはじめて15分ほどで、追入からのルートと合流する。
共同アンテナのところからは、霧に包まれた篠山盆地が見える。
10分ほど歩くと、園林寺跡に着く。
石段を上がると、たくさんの瓦。
往時はどんなお寺だったのだろう。
今は、麓の追入に下りている。
平坦な馬場跡を歩き、
鬼の架け橋や柏原側への分岐を過ぎると、山頂はすぐ。
以前はイノシシの掘り返しででこぼこだったが、整備され広々とした城跡である。
篠山側
八上城のある高城山が雲海に浮かんでいる。
北の春日町側を見ると、分水界尾根の向こうに黒井城址。
二つの城を見張るには絶好の場所だったに違いない。
目を東に転じれば、夏栗山、黒頭峰、三尾山が並んでいる。
鬼の架け橋へ行ってみよう。
周りの木を伐ったんや、と上小倉の知人が言われていた通り、伐採されて見晴らしがよくなっている。
鬼の架け橋
下山は分岐まで戻り、園林寺跡を過ぎたところにあった大乗寺への新しい道を下る。
下り始めの展望のいいところでは、高山・猿薮、白髪岳・松尾山などが顔を覗かせている。
新しい道は、作業道を利用したもので、小さな重機で作った道を下っていく。
道は谷へと続き、鬼の架け橋から30分ほどで大乗寺に下り立つ。
山門の彫刻がすばらしかったので、ちょうど出かけられるところのご住職に伺うと、中井権次作のものとか
しかし、銘がなく誰の作品なのかはわからないそうだ。